2026.09.19
106号:紗都ちゃんの寺小屋ばなし
講安寺住職、両門町会町会長 池田紗都さん
今、私が住職を預かる寺は改修工事をしています。創建420年を迎えます区指定文化財の寺の修繕はなかなか大変です。大きく歪んだ客殿、虫に喰われて落ちた床など、多くの修繕箇所を文化財として元の姿を保ちつつ残すことをしていく中で、できるだけ使いやすく利便性の高いデザインに変えられるところはないかと考えてしまいます。古く使いにくいことが嫌で、「ここに柱がなければ」「もう少し玄関が広ければ」など勝手の良いように変えたい思いが強かったのですが、工事を進めていくなかで元々ある姿を楽しむことも必要かもしれないと思うようになりました。老朽化した箇所や危険な場所は新しく整備しなくてはなりませんが。最近は、現代的なデザインはどこか無機質なものが多く、車も住宅も、無駄を省き、人間が楽をできる非常にスタイリッシュで利便性の高いものが好まれているように感じます。一方で、レトロな昭和時代の製品や店舗などが若い世代に好まれています。私たち人間は、自分たちの暮らしを向上させる技術を求めながらも、どこか不便さを感じる暮らしのなかにある温かさやユーモアは失いたくないのかもしれません。ですから寺も、構造物として危険な状態がなくなるよう修繕はいたしますが、温かさや自然を残し、余白のある場所であれたらと思います。
自然には本来無駄は一つもありません。周りは落ち葉や雑草だらけでも、それを汚いといって掃除を始めたり草を抜く人はいません。それが人の住む場所となると、落ち葉や雑草は邪魔になるのは人間の都合です。「花は惜しまれながら散り、草は嫌われても生えてくる。」
人間の都合だけで物事を見ていては、本当のものの姿が見えなくなります。無駄とは役に立たないことが語源ですが、自然に生まれたものに無駄なものは一切なく、しかし人間の都合で生み出したものはやがて無駄なものに変わってゆくのでしょうか。無駄をなくすのか、無駄を楽しむのか、難しいです。